約束について
30日に学校が終わってからはなれたところに住んでいる友達の家へいった。お酒を飲んで酔っぱらっていた。お酒に弱い彼は吐いていて、ぼくはベランダで煙草を吸っていた。その後、東北沢に住んでいる友達に電話をして遊びにいっていいかと訊いた。いいというので、返す刃で南さんを呼び出した。
状況が一通り落ち着いたのち、電車に1時間ほど揺られて東北沢へ。酔っぱらっていたし、二人に会うのが怖くて気分が悪かった。南さんは同じ電車に乗っていたらしい。改札前の階段で落ち合い、彼の家へ行く途中に彼とも合流。4人だった。
ついて早速、介抱される羽目になり、間もなく嘔吐した。1年以上ぶりだと思う。吐いたついでに泣けたらよいと思った。泣くことも、しばらくできていない。悲しいという気持ちがあまりわいてこないからだ。悲しいと思うような状況になっても、ひたすら空虚になるだけでまったく悲しい気持ちになることができない。そのことはおそらく悲しいと思うのだけど、それだけで泣くことはできない。
そんな風にしていた。
次の日は朝からひどくて、部屋の中がソドムとゴモラ状態だった。眠かったのも含めてあまり覚えていない。
午後すぎに秋葉原へゆき、喫茶店でお話をしていた。そこにいた人たちと飲みにいっておごってもらった。
東北沢に連泊することになって、だらだらと過ごした。
時間の感覚が曖昧で、何をしていたのかあまり覚えていない。ビリヤードへ連れて行ってもらったり、ごはんを作っていた気がする。買い出しがてらに散歩をして、たくさん花を見ていたような気もする。花は、ナガミヒナゲシが咲いていて、南さんにあの白い花は、赤い花は何と訊かれて花水木、石楠花と答えることができた。だけど、石楠花と躑躅を間違えて教えてしまった。花水木は白いものしか見かけなかった。躑躅は、赤いものがきれいだった。夕方になりかけた時間のことだった。黄色の光が斜めにさしている時間で、名前の知らない大きな花も咲いていた。菫はパンジーみたいなものではなくて姫菫のような小さなものが好きだ。スーパーへ行くとかすみ草がうっていたけれど、買わなかった。白くて小さな花がたくさんあって、茎はとても細い。かすみ草で花束を作りたいとよく思う。夢にでてきたからかもしれない。よく考えることのひとつだ。花の名前とかを書くときに片仮名が混じってしまうのがばらばらで好きでない。てんでばらばらで、だけど、ナガミヒナゲシを長実雛罌粟と書くとこれは違うような気がして歯がゆい。
帰り道は日が射していた。夕方だった。坂道をのぼった。ぼくは下駄を履いていて、音がなった。こういうものが生活なのだと意識したかもしれない。帰りにも花を見た。躑躅はいたるところに咲いていて、ナガミヒナゲシはコンクリートの隙間からたくさん生えていた。赤い牡丹と白い牡丹も咲いていた。そのとき名前の知らない花をあとで調べたら蜆花と春紫苑だった。
料理は、炊飯器がないのでパスタばかり作っていた気がする。
一人暮らしを始めたら二口あるコンロの家に住もうと思った。
もう、出来事はあまり覚えていない。
南さんとは数ヶ月のあいだ約束をたくさん重ねた。ピアスの穴のこと、薬指のことだとか。これからのこともふたつくらいした。手紙のこと、近況のことだとか。
それで、約束についてぼんやりした感想が湧いてきた。
書きながら彼女のことを考えていて、やっぱり素敵な人だなあと思った。
別れてしまって、反故になってしまった約束たちがある。あれらはどこへいってしまったのだろうとよく考える。どこかへ消えてしまったのか、わだかまったままそこいら中に放り投げられているのか。それらを偶然感じてしまうととても悲しい気持ちになって、約束しただろう、と押し付けてしまいたくなる。それは絶対に嫌だからやりたくないと思う。だけど、1度してしまった。気持ち悪い。
そうやって消えてしまう約束というのは、未来へつながる制約つきの祈りなのかも知れないと感じた。
買い出しへいった行き帰り、生活のことをつよく意識した。その中に約束や習慣があったらよいと思う。どんなことがあっても生活は未来へつながってゆく。
もう少し、もう少し待とうと思った。
そんな感じでした。
どんなものたちも消えてゆく
たくさん面白いことがあって、いろんなことを感じたのに疲れていると何もできなくなってしまう。からだが恨めしい。
昨日は午後すぎに起きて、22時すぎに電話で友達に23時半くらいになったらうちに泊まりにこいといわれ急いで原稿を片付けた。0時頃その人の家にいくともうひとりの友達が彼の家の前にいた。電話もつながらないし、メールもかえってこないのでごはんでも食べにいこうかということで友達の車に乗りラーメン屋へ。車に乗るのは久しぶりで、電車とは違って面白かった。
塩ラーメンを食べていると、終電逃したから迎えにこいとのことで数駅はなれたところまでいった。
友達を拾って、3人になる。じゃあ心霊スポットにでもいこうかという話になり30分ほどいったところの公園へ行った。残念ながら入れなかったので秩父の方へ向かった。正丸峠といういわゆる走り屋(実在の文化だっていうのをその日まで知らなかった。そんなのは首都高バトルと頭文字Dの中だけだと思っていた)が集まるところらしい。音楽を鳴らし、騒ぎながら向かう。
彼らはいわゆるDQNというような人たちで、オタクではない。そのことが新鮮で仕方がない。ぼくのような人は現実にないもののことばかりを見ていて、そんなことには意味がない、くだらない影のようなものだと思った。彼女の生理が来ないとか、誰と誰がセックスしただとか、そういう下世話な話をし続け、現実はここにあるんだと繰り返し感じた。とてもとても愉快だった。薄っぺらな女の子と顔のない男ばかりがいるオタクの世界とはまったく違う、生きたチンコの射精する世界だと思った(何いってるんだろう)。
正丸峠に走り屋は実在していたし、事故った車のまわりにパトカーが群がり、休憩所には改造した車がたくさんあり、痛車もある。そんな雑多なところだった。夜で、暗くて、オレンジの街灯が並んでいて、川面に光が反射して、とてもきれいだった。
疲れたので帰りは寝ていた。地元についたのは4時過ぎで、空の端が透明な青色をしていた。疲れたし、今日も遊びにいく予定だったので家に帰って10時すぎまで眠った。
11時から遊ぶ予定で、待ち合わせの場所(秋葉原)まで1時間半かかるどう考えても遅刻で、だけど遊ぶ彼もプリキュアを見ていたので遅刻した。
ヨドバシらへんで合流して、ずっとごはんを食べていなかったのでマックでハンバーガーをたくさん食べた。彼に会うのは少し怖くて、その前にもいろいろなことが重なっていておなかがとても痛かった。痛くて苦しくていっぱいいっぱいな感じだったと思う。彼は、昔に恋をしていた彼で、あうのは怖かったし、不誠実なことをしてしまうのではないかと怖くて怖くて仕方がなかった。恋をしていない期間も愛していて、愛おしいと思う人たち皆が幸せになっていたら良いなあと思っていて、だから、彼がとても幸せそうにしていてとても嬉しかった。
彼が今何をしているだとか、大学はどうって訊かれたりした。技術的な話よりもアニメやゲームや漫画の話をするよりもずっとずっと楽しかった。生活の話がとても好きだ。自分が生きていて、どんなことがあって、その中でどんなことを感じて、っていうのが好きでたまらないし、愛おしくてたまらない。きらきらしていて、うつくしくて、幸福で仕方がないんだ。なんてとても実感できる。
しばらく過ごしたあと、あたりを歩き回って、無印良品へいったりした。靴下がよくどこかへいってしまうので(部屋がきたない。本の山が崩れて床がない)買おうと思ったんだ。無印の靴下は可愛いので好きです。生活を彩るたくさんの小物たちが洗練されていたり可愛かったりして、そういうものたちに囲まれているととても幸せな気がする。生きている一分一秒が自分の生活で人生なのだから、そういう中に妥協したものは持ち込みたくないし、全力でありたいと思う。
このワンピース可愛いねーだとか。こういうのが着れたらいいなー女の子に生まれていたらなーこういう風に着れば大丈夫かなあみたいなことを話していた。それから、帽子をかぶってみたり(麦わら帽子!)、細々したお菓子を見たりだとか。ごちゃごちゃしていなくて細かなところに気を配られたものたちを見ているととても清浄な気持ちになれる。
そういえば、服や小物を見ているときには、ものの属性(みたいなもの)を纏うのではなくて、質感を纏いたいと思う。どういうかたちをした、どういう色の服。ではなくて、こんな色あいで、縫い方はどうで、指先でなぞるとやわらかかったりざらざらしていたりして、羽織っているとあたたかかったりする。だとか。
結局、靴下は買わずにでた。彼は白と紺のボーダーのジャケットを一枚かっていた。似合うのだろうなあと想像して、とても楽しかった。
またしばらく歩いて、ベンチにすわっていた。彼がぼくの手をとって、熱いねといった。恥ずかしかった。顔をちらちら盗み見て、そうしてもおかしくないかなあと何度か考えて、指を握って軽く絡めた。すごくどきどきした。どきどきして、すごく幸せで、どうしたらいいのかわからなくなった。
彼には一度嫌われてしまっていた。そのことが何度もよぎった。とても素敵で可愛いくて、そんなこともどうでもよくなるくらい純粋で生きていることに全力で精一杯で愛おしくて仕方なく感じられる彼で、手を出してしまったらみんなだめにしてしまうのではないかと怖かった。怖いのに、指を結んでしまったし、自分は何をしているのだろうと思った。
「暑い」といって、手を離されたときには安心して、だけどやっぱり残念だった。それから、最近別れた恋人だった彼女のことを思い出して不誠実だと思った。
自分がなにをやっているのかわからなかった。
書いていて泣きそうになる。
その後のことは省略してしまおう。
帰り道、地元の駅へ向かう電車に乗りながら、彼の自転車の後ろにのることを想像していた。暗い道で、ふたりだけがいて、何か親密な言葉を交わせたら良いなあと思っていた(乙女か。現実は創作じゃない)。本を読んでいたのだけど、苦しくて仕方がなくなって、泣きそうになった。けど泣かなかった。泣くということができなくて(できない訳ではないけれど、自分の作る物のこと以外で泣いた記憶が数年来ない)そのことがいやだった。全力であるはずなのに(本当にそうだろうか。身の回りで起きる出来事のすべてをものを作ることの過程やネタとしてしか扱っていないような気もする)、そうでなく感じられるからだ。
家に帰って、買おうと思っていたCDを買い忘れたことに気付いて、窒息しそうになったのでiTunesで買った。今も聴いている。
聴きながら上機嫌で文学フリマの原稿を書いて、終わらせた。書き終わったばかりなので最高に気分がいいし、いいものができたなあと思う。明日には何だこれって思うのだろう。余っている時間で推敲をして、そしたら終わりでいいかなあと思う。
休日はこんな感じでした。
書きたいことがうまく書けなかった日記
二日くらい前、上手に寝付けなくて徹夜をしたため今日の寝起きも辛かった。全身がだるくて、起き上がりたくなくて、重力の強さを実感した。どうにか起きて、お菓子でも食べて学校へ行った。ずっとぼんやりしたままで本も上手に読めなかった。一限は物理で重力についていくつか表を作ったりグラフを書いたりしていて、まわりの出来事と世界はつながっているのだなあと思った。ところで、重力は遠心力の関係で赤道近くの方が強いらしいけれど、どんなにからだが重くてもぼくの貧弱な感覚では重力の微妙な差を感じられないだろう。とても悲しい。
昼食はいつも150円のたぬきうどんを食べているのだけど、ぼんやりしてたので倍以上の値段のするナンカレーを食べた。こういう些細なお金とかを気にしないで生活できたらとても幸せなことだなあと思う。制限された資源をやりくりしているのも楽しいけれど、それが少ないばかりに技術や実力的に可能なことを諦めさせられてしまうのはとても悲しいことだ。
その後は国語の授業で、ぼんやり話を聞いていた。新しいことを考えるきっかけを作ってくれる話は楽しい。頭が机から離脱して、遠くに飛翔していく感覚が好きだ。「工芸」と「芸術」の違いを尋ねられて、きちんと答えられたのはすこし嬉しかった。工芸は実用品から派生したもの(壷だとか着物だとか刀だとか)で、芸術は実用的でないもの。こういう風に言葉にしてわけてしまうと芸術の方がいいなあ、と思ってしまう。実用的なものはあまり好きではないからだ。現実の世界から離脱して、純粋なものを取り出したい。だけど、文章でそれを行うのは難しそうだと最近気がついた。個人によって単語にくっついてくるイメージが違うからだ。汎用的な語彙(愛だとか恋だとか。これの違いを明確に説明できる人ってどれくらいいるのだろうか)であるほど意味はぼやけるし、具象的であるほど生活に卑近で汚れた感じになってしまう。うーん。こんなことがいいたいのではない。汚れていてもいいんだ。というよりも、文章(小説とかに限ります)っていうのは語を形態素ごとに分割して、それらのイメージをどろどろに溶かしてしまい最後にイメージが出力されるような気がする。だけど、それは普段のメモ書きや歴史のノートにはあまり適用されない気がする。そう考えてみたら、小説の文体は工芸的だ。こんなことがいいたいのではないなあ。とにかく、言葉をつかおうとすると、言葉はどうしても生活に密なもので、いろいろと余計なイメージがくっついてくる。これは違う。上手くいえない。集中しているときは余計なイメージなんて引き出されないし、純粋な意味と音と視覚だけがある。自分の感覚だけど。とにかく、言葉が普段使いのものである限り、芸術的に用いられることはないと思った。
それから、「工業」とは何かという問題も出された。自分と家族を養うためにものを作ることが工業が生まれる前で(それは今でもあるけれど、工業とは呼ばれない気がする)、工場を大きくしたりたくさんの人を養ったりっていうように拡張されたのが工業だと思った。だけど、それは商業とか経営に接収される概念だともおもった。宿題らしいので来週に期待する。
4限の数学は面倒になってしまったので帰ることにした。電車の中で読みさしの川上未映子の『ヘヴン』を読んだ。最寄りの駅に着いても読み終わらなかったので終点までいった。面白かった。今まで読んだことあるのは『わたくし率 イン 歯ー、または世界』で『乳と卵』は読んでいない。そのうち読もう。せっかく終点の駅までいったので本屋によった。途中、道を歩いているときに紅茶のにおいを錯覚して、パン屋さんが目に入ったのでかえりに寄った。ガーリックフランスパンと、オレンジのクッキーのようなパン、大きくて小麦粉の味がたくさんしそうなパンを買った。家に帰ってからレディグレイの紅茶とガーリックとオレンジのパンを口にした。
そんな感じの日。今日は原稿をちゃんとやろう。
それから、『ヘヴン』を読んだメモ。
『わたくし率』よりも構成が上手になっていたし、文体もすっきりしてしまっていた。もっとごりごりした感じだったら良いなあと思った。でも、面白かった。文庫になったらまた読もう。
毎日書こうと思った
毎日書くことで好きなひとにコミットできたら良いなあとおもったからです。気持ち悪い
今日は2限から学校だったのでゆっくり起きた。起きたときから不安や寂しさ(これらの感情はとても軽い靄のようなものであることが多い気がする)が胸の中に充満していて大気圧に押しつぶされてしまいそうだった。
ところで、この日記の文体と今書いてる原稿の文体が違いすぎて戸惑う。もっと突き放したり、不安定な言葉や、一度読んでもすぐに内容を忘れてしまうようなものが書きたい。しばらく書くことからはなれていたらうまく書けなくなってしまったし、比喩を使う筋力(比喩を考えるのはとても体力がいることだと思う)も衰えてしまった。そういうものをなくしてしまったけれど4ヶ月くらいの空いた期間にとてもたくさんのものを得たし、結果的にすごいよかったしありがとうございます。といった感じだ。素晴らしい時間だったなあと毎日のように回想しますが、回想は前に進まず、時間だけが全自動で流れていってしまうのでいけない。
早速何がいいたいのかわからなくなった。とにかく真面目にものを作りましょうと思った。とりあえず不安定な文体とか、読んでいないとすぐに忘れてしまう書きかた、要約のできない物語が作りたい。
うーん。それで今日は2限と3限を受けて、放課後に部会があるのでそれまで図書館に併設されたカフェテリアで過ごした。電源も回線もある素晴らしい場所ですが、図書館ないなので当然禁煙だった。その他不満があるとすれば床のコンセントにスペースの関係でmagsafeをさせないことぐらいかなあ。あと、せっかくお変わり自由のコーヒーも営業時間が短くて一杯しか飲めないとか。これはそんなに不満でもないか。とにかく、今日はどうにかケーキセットの誘惑とインターネットの誘惑を断ち切って原稿ができたのでよかった。最後の峠を越えたのであとは下るだけだ。完成したらどこかにアップしておくかもしれない。あんまり面白い話でもないし、価値もそんなにないと思う。
それから、部会で自己紹介をして別にいいんだけどジャガイモに囲まれている気分になった。傲慢だし、深くかかわったら全然違うのかもしれないし。だけど、これはただ自分のまわりの物には価値があると思い込みたい症候群なのかもしれない。
で、今日考えたこととか。まとまらないので思いついたことから書く。
例えばtwitterなりセックスなり特定/不特定の対象にコミットするなどの行動を、そのコミュニケーションの量によって捉えることができるんじゃないかなあと思った。量が違うことで可能になることが違ってくるので、それぞれは別なのかもしれないけど。たとえばiPhoneはウェブブラウジングもできるけれど、回線も描画も遅くて仕方がないのでぼくは到底ウェブブラウジングなんてしたくないと思う。いわゆるガラケーならさらにその傾向が顕著だ。それを可能にするリソースの量を保有しているかどうかでそれの可能/不可能が決まるのだと思う。
大体のことは量と質と方向で表せるような気がするのだけど、まだ確信には至っていない。
毎日公開用の日記を書いていると自分の考えを切り売りしているような気になってよくない。まだ考えにまとまる未満の考えを無理矢理アウトプットしてしまうからいけないのだろう。
そういえば、川上未映子の『わたくし率 イン 歯ー、または世界』のことを思い出した。とにかく間違っていても自分を信じて突き進まないといけないなあと考えていたからだ。『ヘヴン』も読みたいけどお金がないから読めていない。社会的に常識的に間違っていても進まないといけないっていうのは普通に生きる上ではたぶん生きづらいと思うのだけど、何か特定の目的を持ってものを作るのなら必要なものだと思う。異なる価値観同士で絶対に迎合しないで、自分の考えだけが最高のものだと信じてそうでないものと殺しあうことができたらよいなあとよく考える。それはとても辛いことだけど、いつまでたってもそうしていたい。幸せな家庭なんてなるべくもちたくないし、せめて隣に人がいるとすればたくさんのものを作って、その思想でもってぼくを殺してくれる人がいい。殺してくれる人がいいって、最終的には思想や価値感に殺されて、自分の価値感や思想を持つことを放棄して安心したいのだろうか。ただそれが普通の生活に落ち着くか、もう少しましなものに落ち着くかどうか程度の違いなのだろうか。とにかく、強度の高い純粋な頭をもっている人に憧れるのは確かで、自分もそうなりたいと思う。
その他考えたこと。
データから情報を取り出すのにいわゆる一般の文章を用いるのは適さないし、そうしたいのなら小説用にカスタマイズされた文体で書かなければいけない。それ以上のパフォーマンスを出すには詩にすればいいのだろうか。詩は敷居が高すぎて書けない。それらの文体や形式では語が何かしらの関数のかたちをとっているような気がするのでそれを云々してイメージに近い情報を導けばいい。ような気がする。これもまだまとまらない。しばらくにわたってそんな予感はしているのだけど確信しない。書かなければよかった。借りっ放しのチョムスキーのやつをいいかげん読まないと。
自由意思なんてものは存在しない。だけど、行動したり感じることによって生じる快/不快はあるのでその感覚を突き詰めて行けばよいのだと思う。ただ、それらを突き詰めるのに未来を無駄に棄てることはいけないのだと思う。これはもうまとまっているので書く気がしない。えっと、あと、人間は自分のしたいことと楽しいことと気持ちのいいことをして生きていかないといけない。これは確実だ。
結論
いろいろまとまらないしごちゃごちゃ意味不明にしてしまった。ローカルの日記は毎日つけた方がいいけど、公開用の隔日で書くことにしよう……
明日じゃ遅すぎる
バンドを組もうという話になって練習会を行った。全員初心者だし、スタジオを借りることもないだろうということで東北沢のねこさんの家に集合した。メンバーは、ぼくと、ねこさん、南さん、海老塚さんだった。
当初は17時頃に集合だったけれど、ねこさんがゼミを寝ブッチしたとのことなので予定が早まった。海老塚さんはメンバーの誰にもあったことがないというので最初に下北沢でメロンソーダでも飲みながらまったく盛り上がりに欠けるというか、ふたりとも人見知りな感じなので大した話もせずにしばらく過ごしてから東北沢へ向かった。
ねこさんの家につくと南さんがすでに到着していて、フルートと篠笛を広げていた。ぼくがカートからベースとアンプ(両方とも南さんから借りたものです)をおろすとねこさんが興味津々な感じにいじっていて、結果4弦が切れた。という訳で再度下北沢へ弦を買い求めた。帰りにコンビニでお酒やお菓子を買い帰宅。練習する振りをしながらはしゃぎ回り、時間がいい感じになったので再々度下北沢のマジックスパイスというスープカレー屋にいった。辛かった。
結局ろくに練習もしないまま海老塚さんは帰り、あとには泥沼の三角関係(仮)が残った。海老塚さんには申し訳のないことをした。三人でいい感じに酔っぱらいながら、ぼく(男)とねこさん(男)が南さん(女)に求婚する流れとなった。ぼくはもう恋人同士ではないけど、とても気分が悪くなり便座に顔を突っ込みながら南さんに介抱されていた。しばらくしてねこさんがウコンの力を買ってきてくれたのでそれを飲んで回復した。
うーん。些末な内容ばかり列挙していても意味がない気がする。
とにかく泥沼の三角関係になり、ねこさんと南さんが手をつないだり抱き合っていたりするのが本当は別にかまわないはずなのにとても不安や喪失感を覚えてとにかく怖かった。直前に孤独とかの話をしたような気がするけれど、やっぱり社会性とかのくびきからは逃れられず、泣き言をこぼす非常に情けない感じになっていた。やっぱりぼくは口だけの人間で、何をするにも口だけの先に行動をしなければいけないことが多すぎてやっぱりだめだなあと思った。
それで、吐気が収まると、今日は南さんが一緒に眠っていていてくれるとのことなので、だけど、その前に一旦独りになりたいというのでコンビニへいった。おにぎりを買ってきてもらって、お味噌汁と一緒に食べた。間もなく眠った。人の家の人のベッドで、彼が好きだと思っている人とぼくが一緒に眠るのは「嫉妬する」とはいわれるものの、おそらく彼女にとって苦痛であると思うものの、やめることはできなかった。ここでやめられるかどうかが何かの分水嶺になっているのだと思う。ぼくはそれができなかったし、今までも同じようなことを何度も繰り返してしまっていた。関係が解消されてからは、何度か我慢することもできたけれど、それも遅すぎた。何かをするのには明日では遅すぎるし、今日できなかったらすべてを失ってしまう気がする。失ってしまったら何かの机上の軌条の上で生きていくしかないとおもう。強くならないといけない。自分が自分を全うするためには強く生きていかなければいけないし、やるべきことを明日にまわしてしまうのは自分を損ねるだけだ。これもほとんど言葉ばかりで上手く行動することができない。
眠って起きて、やっぱり不安は消えなくて、南さんに甘えようとした。とても嫌がられて彼女はねこさんの手を握り、抱きしめられていた。
それを見ている中で彼には本当に覚悟があるのだろうかと不安になった。
彼女が昔にあったことを酔っぱらった勢いで喋り泣き出したとき、ぼくは彼女を抱きしめて泣き止むようにとしていた。そのときのことを彼はとても追いつけない(記憶が曖昧)といっていて、それなのに、彼女を抱きしめていたりして、彼は生涯にわたり彼女を支えることができるのか、互いに高めていける存在の対になれるのかと同時に不安になった。南さんには本当に幸せになって欲しいと思う。それは彼女がとても素敵で、ぼくも好きで愛おしいと思っていて、人生のかけがえのない、一瞬のきらめきのようなものを体験させてくれた人だからだ。彼女は自ら不幸へ進もうとしてしまう嫌いがあり、だからこそあまり独りにしてはいけないような気がする。その対になるようなものにぼくはなりたかったし、彼女を幸せにしたいと思っていたけれど、それはなかなか難しくて、ついには嫌われてしまった。とにかく彼女に幸せになって欲しいと思っているのに、それを上手く望むことができない。
幸福は自分の望むようなかたちをとっていないと不安で仕方がない。彼女が幸せであることが第一であるはずなのに、ぼくの手から離れて幸せになっていくのは胸の中に空いた領域が多くなりすぎて、外圧に潰されそうになるか、ともすればその空いた領域に悪い考えが巣食ってしまうのではないかと不安になる。不安になることばかりだ。不安になることも、そんな風に幸福や大好きで愛おしいと思っている人との関係を捉えてしまうのは若いからだろうか。もう少し色々な経験があって強い人間であったらというのは恋人同士であった間も、それ以上にその後にとても思った。
とても苦しくて怖くて疲れて、気がついたら三人ともが眠っていた。ぼくはいいかげん強くならなくてはいけないと思ったので元気を出してごはんを作ろうといった。南さんが何日か前にカルボナーラを食べたいといっていたので作ろうとしたけれど、結局煮麺になった。
三人で手をつないで走ったりしながら近くのスーパーへいった。とても幸せだとおもうし、春の陽が燦々と注いでいてとてもうつくしかったと思う。三人で暮らそうという話が昨日の夜にでていて、その話もすこしした。泥沼の三角関係をいつまで続けるのだとも思うけれど、そうできたらとても幸せだし、毎日を楽しく過ごせると思う。毎日を楽しく過ごすことは自分にとって大切で、人生というもの自体を死の執行猶予と捉えているからかもしれない。死の間際に幸福なことをたくさん思い出せたらその人生はとても実りのあるものだったと思うし、素敵だと思う。
作りすぎた煮麺を食べて、いいかげんバンドの練習らしいことをした。楽器にふれるのはとても楽しいし、仲の良い気取らない空間にいられるのは落ち着く。泥沼の三角関係っていうのは自分でもよくわからないけど、それはただふたりともが南さんのことが好きで、それに加えてねこさんのことも好きで、ねこさんもどうやらぼくを好いていてくれているらしい。よくわからないけど楽しくて、やっぱり三人で暮らせたらとても幸せだなあと思った。
時間が頃合いになったのでぼくと南さんはおいとました。地下鉄に乗りながらもうよく覚えていない話をした。しなくていいことと話をたくさんした。地下鉄に乗っているときだけではなくて昨日も今日もその前も。後悔をするけれど、後悔をしながら次に繋げられたらいいと思う。少しずつではあるけれどできてきているしあまり悲観する必要はないかもしれない。遅すぎるような気はするけれど。とにかく不安なときに手を握っていてもらえるのはとてもありがたい。だけど今度こそはそれが独りよがりにならないようにしないといけないなあと思った。
家に帰って荷解きをして、部屋の隅にカッターが落ちていて、手首とかを切ったら楽になるのだろうかと思った。楽になるはずもないし、楽になっていない例を見ていたのでしなかった。それから、やっぱり彼は南さんのことを支えられないだろうと傲慢にも思った。傲慢にもほどがあるけれど、そう思ってしまった。そういう傲慢なことを思う自分が支えられたかというと上手くできていなかった。きっともう少ししたらできるようになるかもしれないけれど(もしかしたら今も上手くやればできるかもしれない)、そのときではもう遅すぎる気がする。
そんなものは錯覚で、ときには待つことが必要なのかもしれない。それも怖くて上手くできない。毎日毎日死ぬときは迫ってきているし、そのときを必死に生きなければいけないし、待つことが最適のことだと頭ではわかっていても怖くなってしまい手をだしてしまう。いいかげん若くもないのだし直したいと思う。
うーん。まとまりのないことを書きすぎた気がする。
とにかく彼女が幸せになれたら良いなあと思った。
それから、いいかげんぼくも他の人とくっついた方がいいのかなあと南さんにもいわれながらすこし思ってしまった。諦めてしまったらそれで終わりなのに。
雪の降った、夢のような日だった
一昨日くらい(17日。何日前かは覚えていないけれど、17日なのは確か)に新宿へ行った。
飽きもせず恋人と。飽きることなんてないような気がするけれど、頭の奥底ではいつか飽きてしまうのではないか、これが(すでにそうであるような気はしているのだけど)日常になってしまうのではないか、なんて危惧を抱いているのだけど、せかされるように会いにいった。
その日彼女は入試で、ぼくはそれが終わるのをやはり新宿で待っていた。10時くらいに起きだし、しばらく仕度をしたのち埼玉の自宅を出た。大宮から埼京線に乗り、電車はぼくが足を一歩も動かさないまま新宿へ着く。
入試が終わるのは12時10分だときいていて、まだ1時間ほどあったので紀伊国屋へ行った。買ったのは『方舟さくら丸』、『性的人間』、『虐殺器官』だった。東口のロッテリアの三階(狭いけれど喫煙席があり、電源もある)で読みかけの『第四間氷期』を読み、読み終わった頃恋人にメールをした。こういうところは心配性でいけないと思うのだけど、どうしようもない。もっとまとわりつかない、何ものにも拘泥したくはないのだけど、どうしてもうまくいかない。あと2、3ヶ月はこの状態が続くと思うと、何度も書いたけれど気が重い。
読み終えた『第四間氷期』を脇に置き、『性的人間』を読んでいると恋人から電話がかかってきた。入試のほう、うまくいかなかったとかなんとか。近くの川をみてから新宿へ向かうそうだった。ぼくも彼女も入試のことは心配していなかったのに、意外な結果だった。こんなことは白々しいのだけど、そう思った気がする。
こうやって日記を書いているけれど、こんなことを書きたかった訳ではない。最近、以前に比べるとまったくといっていいほど文章を書かなくなってしまったのでうまくいかない。おきたことをシーケンシャルに書くだけでは文章にする価値はなくて、何か新しい発想のようなものを塗り込めていけたらよいと思うのに、やはりうまくいかない。
それで、そのとき何のことを一番に思ったかというと、彼女と一緒に暮らすことだった。彼女の受けた学校と、ぼくが進学する学校へ通学するのに都合のいい駅があって、その辺りに部屋を借りられたらよいな、と思っていたからだった。なんだ、一緒に暮らすことは出来ないのか、残念だな。みたいなことを思った気がする。彼女の隣にいるのは、同じ部屋にいる時間がとても幸せで、たとえそこで言葉を、からだを交えなくてもよい。ただそこに存在があることを、たとえばぼくらは毎日、特段の会話をする訳でもなく電話をし続けている。いとおしく思うもののがそばにあること、その息づかいを感じられることが出来たらよいなと思っているからだった。格好つけて書こうとしたらなんとなく、嘘のようになってしまった。とにかく、生活をともにし、彼女の世界に生きる息づかいを、些細な動きを感じ取ることが出来たらよいなと思っていたのだけど、それも難しくなってしまうかもしれない、と思い、やはり悲しかった。
1時間ほど間があいて、恋人がきた。ロッテリアを出て、東新宿を歩き回る。主に雑貨屋(指環のサイズを確かめたり、帽子やシュシュをあてがいあったりした)や人形屋を見たのち、カラオケに入り、三時間ほどだらだらと過ごした。
いつの間にか目を覚ますと夜があけるほど前の時間になっていた。その日の空は曇天で、薄暈け灰色をしていた。結露した窓から外を見ると、橙色のナトリウム灯に照らされ雪がちらついていた。
「雪だね」
「海へいきたい」
みたいな言葉を交わした。
橙色の光に瞬く雪の量はとても多く、たくさん積もるだろう、大雪だろう。と思った。まだ陽ののぼる前で、次に目を覚まし昼間になっていたら白い陽が雪とともに街を眩しくしてしまうだろうと思った。
しかし、その、素敵に灰色だった空も掻ききえて晴天だった。目を覚ますと、雪は窓から見える範囲の屋根には、一片の融けのこりもなかった。あんなに降っていたのに、とても寒かったのに、一眠りして目を覚ましたら、さっきのことはすべて跡形のない夢。さっきのことは夢と現の間のことでみんなぼんやりとした空気の中に消えてしまったのではないかと思った。
残念がりながらその建物を出ると外は眩しく、ああ冬の日なのだなと思った。しばらく歩き、新宿を出る前に御苑前を通りかかると、植え込みに小さな融け残りがあった。指先で触れると豊穣な土のようにやわらかく、確かに今日の朝雪が降っていたのだなとわかった。
そんな感じ。
ここ最近の日記
雪の降った日、恋人が海へ生きたいといいだしたので海へ行った。三浦半島の先っぽ、三崎口というところだった。その日ぼくはソウイチさんの家に居て、彼の同人誌の装丁を手伝いをしていたのだけど、彼女が家出半ばに海へいくといいだしたので作業を途中で放って品川駅へいった。
このことについては日記にまとめようと思ったのでどうにもうまくいかないので書くのをやめた。
書きかけだけど、一応載せておきます。
海を目指す日記
雪が降った。
東京では今週の月曜日にも降った。
今日は水曜日で、また降った。
遠い昔(遠く感じるだけで現実には先月12月の末あたりのことだ。1ヶ月すこしの間にとてもたくさんの出来事があった)に雪が降ったら三浦半島の海へ行こうと約束をした。
よく海へいく彼女、恋人とは日曜日から夜通し遊んだ。その結果ぼくは体調を崩して新宿西口のマクドナルドで心配されていた。「今日は雪が降りそうだね」iPhoneでtwitterを見てると今日が雪の日だとわかった。「そうだね」体調の悪いなか、次の休める場所を探して都会をさまよい歩いた。マクドナルドを出ると外には冷たい雨が降っていた。ぼくは帽子をかぶっていたので貸そうか、と申し出ると丁重に断られた。ファミレスに入り、しばらくの後に出ると、雨は雪にかわっていた。「海にいけなくてごめんなさい」「ううん」そのまま埼玉の実家に帰った。心配して、新宿から埼京線の快速で大宮まできてくれた。「今度一緒にいこう」なんて約束をしたかもしれない。数日前のことも遠くのことで、それは間違っているかもしれない。
また、雪が降った。
今日は、卒業のための用事で学校に行ったあと、同人誌の装丁をやらせてもらっている方の家へ行った。山手線を降りて、メトロにのるお金がなかったので歩いていった。駅から出ると小雨が降っていて、そのうちに強くなった。強くなり、とても寒い日で、雪にかわった。
彼女が、海へ行こうといいださないか不安だった。今日はいけないと思ったからだ。装丁のお仕事をやらないといけないし、服は制服だし、お金もない。なんて、ろくでもない言い訳を重ねて祈っていた。それだけではなく、今週はまた金曜日にあおうといっていたのにその約束を反古にされてしまって、すこし不機嫌だったから。
同人誌を編集する彼の家に着いてしばらく作業をして、彼女とSkypeでチャットをしていると今日海へいくといわれた。ぼくもいくべきか悩んだ。邪魔になってしまうのではないかの危惧と、強情になったぼくの精神と、装丁のことで揺れていた。
結局、我慢できずに海へ行くことになった。「わたしはいまからうみへいこうとおもいます」そのとき同時に「いっしょにいきますか」といわれたけれど、ぼくは「ごめん」としかいえなかった。彼女がSkypeからログアウトした後、やはり我慢できずにメールで一緒にいきたいといった。当然のように(ぼくは実際彼女にあったかもしれない葛藤のことを知ることは出来ない)。「うん 行けそうなら一緒に行きたいです」といってくれたのだ。とりあえず終わらせるべき装丁の作業を終え、家を飛び出した。三田線に乗り、山手線に乗り、三浦半島へ行く京急久里浜線の出る品川へ急いだ。今は、外回りの山手線に乗りこれを書いている。こんな状況にあって、こんなろくでもないことをしている自分のことを思うとすこし嫌になる。所詮ぼくは彼女のことよりも自分の作る物のほうが大切なのだ。こういった文章のほうが。
とりあえず彼女は京急の一番線で待っているとのことなので早くいきたいと思う。しかし電車はどんな焦燥も慮ることもなくすすみ、品川まではあと15分ほどかかる。とりあえず、今はこれまで。三田線と山手線のホームを急いだ足が痛いです。
もう、帰ってきたあと。
そういえば、彼女の海へいったのは家出だったらしい。
大分記憶も薄れたので彼女の日記を読みながら思い出す。
それで、品川で降りてから京急のホームへ向かった。改札をくぐった先でまわりを見渡したけれど彼女の姿は見えず、電話をかけた。場所を伝えるとそっちへ行くとのことなので。待った。待ちながら、彼女は大丈夫だろうかと考えた。
もう二日も前のことでそのときの印象はもうあまり覚えていないのだけど、たぶん、いつも通りだったと思う。どんな会話をしたのかもあまり覚えていない。思い出そうとしてみると、やっぱり彼女にはすこし余裕がなかったかもしれない。「きてくれてありがとう」みたいなことをいわれたような気がする。それから、手をつなぐと、とても冷たかった。たぶん、1時間くらいずっと、寒いところで待っていたからだ。「遅くなってごめん」「ぜんぜん」「一時間くらい待っていたでしょう」「そんなことないよ」「そんなことないって」電車を一本待ち、次の三崎口行き最終列車に乗った。京急品川駅のホームも電車も混んでいて、なんとなく息苦しかったような気がする。そういえば、彼女は傘を持っていた。数日前に買ったという、ベージュの、水玉の傘だ。
電車に乗りながら何があったのかはもう覚えていない。
三崎口駅で降りると、急に気が昂ってばかみたいな話をしながら歩いた。
それで、そのあとは寒いのでマクドナルドへ入ろうとしたけど23時で営業が終わっていたり、twitterでフォローしている方の経営するローソンへいったり、海を目指して風車を見てきたり、凍死しかけたりした。そのあとはファミレスに入り体力が回復するのを待ち、新宿へ戻った。
ところで、新宿にいるときは大体東新宿、とりわけ歌舞伎町にいるのだけど、その街がすきだ。雑踏も、ビルの隙間も。
次の話。
海へいったのは水曜日で、木曜日に解散した。それからしばらく会うことがなくて、昨日、月曜日に久しぶりにあった。場所はぼくの家で。ケーキが食べたいと最近頻りにいっていたので桃のタルトを焼いてきてくれた。おいしかった。
そのあとはふたりで久しぶりにゲームをしたり、だらだらしたりしてわかれた。地元で会うのはお金がかからなくて楽だけど、なんとなく落ち着かないものがある。大学へ進学したら一人暮らしをしたいと思う。もっとも、お金がなくて難しいのだけど。それに、一人暮らしよりも一緒に住みたいと思うのだけど。ぼくと恋人の相性は多分良くて、一緒に住んでもなんとかやっていけると思う。こんなことを思うのはまだつきあい初めだからで、なんともばからしくて初々しいものなのだけど、そう思わずには、願わずにはいられない。
最近の文章についての所感と、私信めいたもの(恥ずかしいのであまり読まないでください)。
最近、まったくといっていいほど文章が書けません。手紙をいただいたのでお返事を書きたいと思うのですが、それもうまくいかないのでこれを書きます。それはそうと、今年の目標はごはんを食べるときにいただきます、ごちそうさまということでしたが、一人でいるときはなかなかまもれません。言葉がアクセサリのように機能しているからだと思います。もし、世界から人が消えてしまってぼくひとりになってしまったら、もしくは、ぼくと彼女のふたりきりになってしまったら、そのときぼくは何かを考え、書くことがあるのか、と、とても疑問に思うのです。何かを考えるのも書くのも、誰かのためではなくすべて自分のため、考えを突き詰めていった先に見えるもの、文章の構造の先にあるものはなになのか、何もない真っ暗なところなのか、色彩の爆発する目もつぶれてしまうような光景なのか。単にその景色が見てみたいし、それがそのどちらなのかどちらでもないのかを見極めたいと思います。
そんなことはどうでもよくて。
まったくよくないのですが。
とにかく、ぼくが何かを考えたり作ったりするのはそういう欲求のもとで、その欲求は何よりも優先されるもので、生きることや彼女のこと以上に優先されることなのですが、実はそうではない、一番の理由はやはりそこにあるのですが、その他の汚れた理由がある気がしてならないのです。例えば、人に褒められたいだとか。そんなものはとてもくだらないなぁ、と、つばを吐くようにして棄てられたらとてもよいのですが、なかなかうまくいけません。きっと、根は本能にまでおろされているからだと思います。ここで思いますといってやめてしまう訳にもいかず、ぼくはそういったもののすべてを振り切って考え、文章を書かなければいけないのです。ところで、考える/文章を書くというととても長いのでてきとうな文字列をあてがいたいと思います。いまから、「考える/文章を書く」は、「5」になります。
それで、そうやって5によって人に見られること、認められることを少しでも考えているうちはどうしようもないと思うのです。世界から人が消えてしまったら、本当に5を続けることが出来るのか。不特定多数の人間に認められると、もちろん嬉しいです。ぼくの5を面白いよ、といわれれば嬉しいし、その人のことを好きになってしまったりも、します。こういった無駄なレトリックをつかうあたりがぼくの5に根ざしている問題で、そういったもののすべてを廃止して文章を書かなくてはいけません。ただただ、目指すところへ5の先に見えるもの、あるもののために書かなくてはいけないのです。
書きたいことが上手くまとまらず冗長になってしまいました。
とにかく、最近のぼくはいままでと同じように、同じようではありますが5をしていなかった1ヶ月のうちにたくさんよくなったし、きっと、いままで以上に5を出来るようになったのですが、なぜかうまくいきません。まったく理由がわかっていない訳ではないのです。ただ単に、怠けすぎてだめになってしまっただとか、まだ消化できていない感情があるだとか、そういうところに問題があるはずです。だから、へたなままでも5を続けて感覚を取り戻し、そのうちに感情を消化し、5をしなければいけないのです。今年は飛翔の年になればよいと思います。いままで以上に面白い経験をし、時間も出来るのですから。
さて、本題に入ります。
上は、本題の前に少し書きたいな、と思っていたことをちらと書くつもりだったのですが、予想外に長くなってしまいました。
しかも、そこで書きたいと思っていたこともうまく書けませんでした。書かれてしまったことはすべて正しいのでぼくが誤認していただけかもしれませんが、とりあえず最初は世界から人が消えてしまったとき、それでもぼくは指向/志向するもののために5を続けられるか悩んでいて、その答えに少しでも近づければよいなと思っていたのです。
本題。
上手な文章、へたな文章というものがよくわからなくなります。
最近、人の文章をよんで適当なことをいう機会があったので、もらった原稿を印刷しててきとうな感想というか指南(おこがましい)を書き込んで返しました。それが正しいことだったのか、その人の文章を不当に曲げてしまうものだったのか未だわからないのです。
ぼくは(さらに発展してぼくたちは)、何をもってして文章を上手だ、へただと評すのか。日本語で書かれた文章を読み、文法に従っていない文章でもぼくは大体の意図を察することが出来ます。その解釈は正しかったり正しくなかったりしますが、しかし、それが文法に従った文章であっても正しく解釈が出来るかの保証はないのです。正しい文章、正しくない文章。うつくしかったり可愛かったりする文章。人の感情を直接掴み揺さぶる文章や、乾燥した文体であるはずなのになぜか色彩にあふれているものもあります。そういったものたちは僕らの中でどうやって解釈されているのでしょう。
それから、最初に戻って上手な文章、へたな文章。上手である文章が感情を揺さぶるか、色彩を再生させるか、といえばそうとも限りません。技巧につくした文章であっても、そうであるとは限らないのです。その如何はどこで決まるのか、さっきでてきた人のブログをよんでいたら、文章はとてもへたなくせにぼくの感情を強く揺さぶる記事がありました。それはなぜなのか。それが、ぼくについて書かれていたものだったから、と簡単にいってしまうのは簡単ですが、問題の本体はそこにあるような気がしないのです。とても切々と綴られている、ごくごく簡単な修辞と修飾のもと小学生に毛が生えた程度の文体だったのですが、それはとても強度の高い文章だったのです。
その文章を、ぼくは、たくさんの人が読みやすいよう、丁寧な文体でリライトすることが出来ます、しかし、そんなことをしてしまったらその記事に書かれていた大まかな内容、何が起きて、どうしたかなどは大体表せられるでしょうが、それ以上にその文章に込められていた大切なもの、文章を書くことによって込められた祈りや呪い(そればっかりだ)はすっかり失われてしまうでしょう。だから、上手な文章がいいとか、へたな文章はだめだとか、なんて、思わないのです(むちゃくちゃだ)。とにかく、そう思います。
それから、ぼくは文章を書き始めてからしばらくのあいだ、人に書いたものを読まれるという経験がありませんでした。ひとり、書いたものをHDDの中に貯め込むような生活をしていたのです。一般的に、文章を書くときは人に読まれることを意識して、また、書き終えたら誰かに読んでもらうほうがいいとききます。ここでifをいっても仕方がないのですが、ぼくのいまの文章は最も適切に進化していると思うのです。人に見られながら書いてきた場合よりも、ずっとよい文章を書けているような気がするのです。比較することが出来ないので、なんともいえないのですが。
自分の文章のどこが悪いとか、いいだとか、そういうところを自分なりに客観的に見ながら書いてはきましたが、人に指摘されたことはほとんどありませんでした。その結果、もとは悪かった文章の癖も魅力のあるものになったのではないかと思います。ほんとうに、それがどうなのかはわからないのですが。一般的に上手な文章ではない、暴力的な文章のほうが魅力的な場合もあると思うのです。これは、ぼくの文章のことではなく、人の書いたもののことでも。
だから、その、適当に文章をどうこうしたらいいよといっている人にも、ぼくは余計な口出しなんてせずに、自由に(もちろん、へたくそでも上手になれることを意識しながら。客観的に)書いて欲しいなと思うのです。
ぼくかその人か、誰にあてて書いているのかわかりませんが、これがいまの考えていることの一部です。
悪い文章の癖でも、それはそれを伸ばし続ければ魅力的に映るようになるかもしれないし(それがなぜだかはわかりません)、いまはいいところでも、何か他の癖を阻害してしまう文体になってしまうかもしれないのです。
とりあえずは、ぼくは面白かったり興奮できたり没頭できたりする文章が好きなので、その人もいい文章を書いてくれたらいいなぁ、と思います。文章を書くことは自分の汚い面や、見たくもないところをじっと見て、観察、分析しなければいけない辛苦の作業ですが、どうか独りよがりになることなく、折れることなく書き続けてくれたらいいなと思います。
まったく私信のようになってしまいましたが、こんなところです。
未来のことだとかなんだとか(祈りと呪いについて)
愛は祈りだ。僕は祈る、というのは舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』の一節だし、ぼくはいま祈っている。「どうかどうか、あいするもののすべてが幸せでありますように」だけど、世界にあるのは祈りばかりでない。世界には常に目の前に提出/提示され続ける、あるいは目撃する現実や光景があって、その中には何の感慨もない、中学校一年生の英語の教科書にでてくるような This is a pen. と同じほどの事実しかない事実や呪いがある。ぼくはその現実や事実、光景たちを乾燥した、感慨のない言葉で表したり、シャーマンの祈祷のような言葉で表現したり、あるいはくらい、地の底から沸き上がるような言葉で呪ったりする。
この日記を書くまでにふたつか三つほどかきかけて放置した記事がある。それはどれも事実を事実のまま書いた日記で、現実の二次創作でしかないものだった。ここ一ヶ月ほどの自分はほとんど何も作ることなく、ただただ、いわゆる充電期間のようにすごしていた。まったく無意味ではなく、しっかりと頭の中は発展し、発想を繰り返していたのだけどなんとなく物足りなかった。いろいろなひととあい、あいするひととあい、本を読み、首都(東京)の中を疾走していた。単純に走っていたこともあったし、気持ちばかりが逸っていたこともあった。秋葉原の喫茶店で、新宿三丁目のロッテリアで、丸ノ内線のシートで、都営三田線のシートで、さくら水産で、西巣鴨で、葛西臨海公園で、歌舞伎町の雑踏で、およそ山手線から遠くない範囲を動き回り、うごきまわるなかで、いつの間にかあいする彼女と手をつないでいたりもした。丸ノ内線の新宿三丁目駅のA2出口の階段でキスをし、のぼった先で伊勢丹の古くさい建築とテラスの装飾がどうだとか話したり(これはまた別のひと)。
そういった膨大な光景の中でぼくは何を考えていたのか。数日前に考えていたことは、今となっては古くさくなっている。何日か前、彼女にあてて書こうとした手紙はすでに古いものとなっていたし、なので、出す直前に補遺や留保のような手紙を一枚書き足した。それも、いまでは古い気がする。その中になにを書いたのかはもう覚えていない。すべて簡単なことだと書いたような気がする。祈りや呪いのことを書いたかは覚えてない。京浜東北線の車内で、少しだけ彼女と祈りの話をした気がする。新宿から総武線で秋葉原へ、いつもの喫茶店で過ごした後、本屋によってActionScript3の本(唐突に勉強したくなった)と、書体見本と、封筒と、漫画を買った帰りの車内だった。本屋からでて、別れるのが惜しかったぼくは煙草を吸っていってもいい、と訊いて、喫煙者ではないけど煙草のにおいが好きな彼女はよいといってくれた。昭和通り口の喫煙所で一缶のジュースをまわし飲みながら2本の煙草を吸った。たくさんのひとに囲われ、重たい紙袋を足下に置きながらのことだった。彼女は煙草なんて吸わなくてもお話しするのにといってくれて、ぼくはその言葉をとてもいとおしく思い、少しだけ祈った。どうかどうかこの関係が失われませんように。これはあまりに美化した言葉で、そのことはもう数日前であまり覚えていないから参考になんてならないのだけど。それに、そんな風にして維持される関係はいつしか腐ってしまうと思う。ぼくたちはあの皺と染みだらけの肌の老人たちとは違い若く、世界を疾走するものだからだ。走っていないと死んでしまう、常に新しい発想を、光景を求めている。その中で祈り、呪い(何度も繰り返す)、思考と試行をし続ける。思考の早さも、現実的なスピードも違う(ぼくは男で彼女は女だ。歳は4つも離れている。10代のぼくたちにとって4年というのはとてもとても長い、膨大な時間だ)ぼくたちはいつか離れてしまい、それでも手をとり走り続けようとするならば、そのフォームはとても不格好なものになってしまうだろう。なので、ぼくたちはいつしか別れてしまうだろう。初日の出を観にいった帰り、山手線を三周した。そのなかで彼女は、わたしたちの関係はきっと長く続かないといい、ぼくもその通りだと思った。ぼくたちの進学する三ヶ月後の未来がどうなっているかなんて到底想像できないし、とてもおそろしく、そのときを輝かしく思える。どうかどうかぼくの左手には彼女の右手が繋がれていますように。だなんて祈る。三ヶ月後にその祈りは呪いになっていたとしても希わずにはいられない。
どうしようもなく感傷的な文章だ。この恋はきっとぼくにとって何らか作用をもたらすだろうし、思考にも影響を与えている。それがいいことなのか悪いことなのかはまだわからないし、悪いことであっても未来の自分を作るための必要なステップだ。どんなものであったって、未来の自分の糧になるのだ。憤激も幸福も。ベッドの中で交わす睦言も(ただしそれはソフトバンクとウィルコムの回線に繋がれたあやふやなものだ)。
ここまでかいたけれど、上手いまとめかたが思いつかない。現実のすべては小咄のように上手くまとまることはないし、こんなものだと思う。まだ夢想の中にしかない人類の滅亡も、そこにはどんな詩的(詩はあるだろうけど)もなく静かに、眠るまぶたと同じような感じだろう。だから、この日記もそんな感じで終わりたいと思う。明確な終わりなんてなくて、あったとしてもそれは錯覚でしかないようなもので終わりにします。おわり。